DOMINUS MEUS ET DEUS MEUS

By Living Water Maru 810

「わたしの主、わたしの神よ」— ヨハネ20章28節

使徒トマスの信仰告白は、単なる理論から生まれたものではない。それは、出会いから生まれたものである。

トマスは、確かめることを求めていた。復活されたイエスの傷に触れ、自分の目で確かめなければ信じることができないと思っていた。しかし、復活されたイエスが弟子たちのただ中に現れたとき、その疑いは一つの深い信仰告白へと変えられた。「わたしの主、わたしの神よ!」

それは単に「主である」と言うだけではない。また、単に「神である」と認めるだけでもない。「わたしの主」「わたしの神」。そこには、イエスとの人格的な出会いと関係がある。

セーレン・キェルケゴールの思想から見るなら、信仰とは単なる知的な結論ではなく、神の前に立つ人間の実存的な応答である。トマスは復活されたキリストの前に立ち、他人の信仰ではなく、自分自身の言葉で答えなければならなかった。「わたしの主」。それは、イエスについて何かを知ることから、イエスご自身に自分を委ねることへの転換である。

ガブリエル・マルセルの思想は、「わたしの」という言葉の深さを考える助けとなる。神との関係は、神を一つの対象として所有したり、完全に説明したりすることではない。神は、人間が生きる中で出会う神秘である。トマスは神を所有したのではない。むしろ、そこにおられるキリストの前で、自分自身を委ねたのである。

カール・ラーナーの思想によれば、人間の存在そのものは、その深みにおいて神の神秘へと開かれている。復活されたキリストにおいて、その神秘はイエスという人格のうちに現れる。したがって、トマスの「わたしの主、わたしの神よ」という言葉は、神が先に人間へ近づいてくださったことに対する、人間の応答なのである。

この言葉は、二千年前のトマスだけの言葉ではない。疑いを抱えながらも、キリストを求め続けるすべての人の祈りとなる。

信仰は、いつも確信から始まるとは限らない。傷、疑い、探求、そして沈黙から始まることもある。しかし、キリストが現存しておられることに気づいたとき、人は心の目を開き、こう告白する。「Dominus meus et Deus meus. わたしの主、わたしの神よ。」

「神が存在する」というだけではない。神がここにおられる。「イエスが生きている」というだけではない。イエスは、わたしの主である。

そこにおいて、探求は出会いへ、疑いは信仰へ、知識は礼拝へと変えられる。